ソウルの路面電車
展示を開きながら
120年前の四月仏生日、敦義門(トニムン)から興仁之門(フンインジムン)まで路面電車か開通しました。鐘路(チョンノ)に敷かれた軌道の上を電車が初めて運行されました。1887年に景福宮(キョンボックン)内の乾淸宮(コンチョングン)に電気が通じ、1897年に德壽宮の中和殿(トクスグン・ジュンファジョン)にて大韓帝國の成立を宣布し、引き続き1899年に電車が開通し、漢城(ソウル・ハンソン)はまさに近代都市としてのインフラを備えることになります。
それから1968年に最後の路面電車が運行を終えるときまで、路面電車は漢城とソウルの緊要な交通手段でした。路面電車は単純に新しい交通手段であっただけでなく、五百年もの間、漢城府の都心を囲っていた漢陽都城を解体する原因となりました。さらに都市の空間と時間を再編し、人々と文化の産物が移動する近代の通路となりました。
ソウル歴史博物館と韓国電力公社が共同で、120年前の路面電車開通を記念し、その軌道をたどって都市の面影と市民の日常を回想するソウルの電車」の展示を開催することになり、よりいっそう意味深いものとなりました。特に今回の展示に紹介されている、韓国電力公社所蔵のボストウィック(H. R. Bostwick)氏の写真集などは、私たちに忘れられた路面電車登場初期の様々なエピソードを見ることのできるよい機会となるでしょう。
近代への疾走
1889年、今から120年前、路面電車が(今のソウル)を走り始めた。広げられた道路の上の線路を電車が走る姿は、当時の人々には一つの驚きとして受け止められた。これは西洋の人も同じだった。世界で路面電車が最も早く実用化されたのは1881年のことであったからだ。
路面電車の導入は実はの近代化への意志から実現したのだった。1880年代から、海外に視察団を送り、最新の文物を学んでくるようにしたのをはじめとして、大韓帝国を宣布した後、本格的にそれらを受け入れていった。路面電車もそのなかの一つだった。
導入当時に意図したことではなかったが、路面電車は産業振興という当初の目標とはちがう、さまざまな面で変化を引き起こした。都市の姿を変え、人々の意識および生活も新しい秩序の下に組み込まれていった。路面電車の疾走はそれこそ近代への疾走だったのだ。
軌道と車輪は人々の足となり
大韓帝国期には4つに過ぎなかった路線は、十年の間に急激に増加した。1943年には路線が16に達した。それこそ、路面電車の全盛期が到来したのだ。
広がっていく路線につれて都市の景観は多くのものが変化した。軌道の敷設により城門に続く城壁が解体された。1909年、(日本)は電機会社を手に入れ、それ以降、日本人の必要により路線が引かれた。これは植民都市、府へと格下げされた現実を反映したものだった。
それにもかかわらず、京城の所々に張りめぐらされたので、路面電車は非飛び地の日常の交通手段としての地位を獲得していった。路面電車は都心と郊外を往復しながら、生活圏を拡大し、人々の生活も躍動的に変化させた。広がっていく都市の境界と人口増加につれ、路面電車の数も増やさなければならなかったが、その需要に追いつくことができなかった。路面電車の中に入っていけないほど、混みあい、人々は30分以上も待って、ようやく電車に乗ることができた。
70年間の運行修了
1945年8月15日の解放以降、ソウルの人口は百万人を越えながら、満員電車という問題が日に日に大きくなっていった。路面電車はソウルの代表的な交通手段だったが、その力を十分発揮することができなかった。この問題を解決する方法は二つあった。運行本数を増やすか、または他の交通手段に変えることだった。ソウル市は後者を選択した。すでに交通需要が路面電車の運送能力をはるかに上回ったため、路面電車が走っていなかったところに、バス路線を新設して結びつけた方が時間と費用の面で効率的だった。
バスの乗客増加は路面電車の乗客減少という結果をもたらした。そのため、路面電車の運営会社であった電機会社の赤字は増える一方だった。京城電機会社は企業合併を通じて、巨大企業「韓国電力会社」になったが、路面電車の衰退を押しとどめることはできなかった。路面電車時代の最後はソウル市がみとることになった。韓国電力から入手した路面電車事業を一年後の1968年に全面的に廃止することにしたのだった。路面電車全盛時代の幕がおりる瞬間だった。