コンピョン(公平)都市遺跡展示館の目の前には、チョンノ(鍾路)タワーが立っています。ここは朝鮮時代のユギジョン(六矣廛)のうち最高の絹市場があった場所でありながら、同時に半世紀以上にわたりチョンノ(鍾路)のランドマークだったファシン(和信)百貨店があった場所でもあります。
ファシン(和信)を知らない今日の人々にとっても、チョンノ(鍾路)タワーはチョンノ(鍾路)のランドマークです。ユギジョン(六矣廛)の絹市場、ファシン(和信)、チョンノ(鍾路)タワー。これらはすべて、ハニャン(漢陽)の、キョンソン(京城)の、ソウルの「商業の中心」という象徴性を持っていました。
今回の展示は、このうちファシン(和信)の歴史を振り返り、ここにまつわる人々の記憶を紹介いたします。
パート 1. 今は百貨店全盛時代
日本による植民地時代、ある記者はこう述べました。
「1930年のキョンソン(京城)は、実に百貨店の時代だ」
人口30万人(1930年代当時)のキョンソン(京城)には、百貨店がなんと5店もありました。平田、三中井、丁子屋、三越、そしてファシン(和信)です。彼らが、その時代の主役だったといえます。
百貨店時代は、日本の呉服店が大型百貨店へ変化しながら幕を空けました。ナムチョン(南村、現在のチュンムロ(忠武路)とミョンドン(明洞)一帯)にあった日系の百貨店は、店舗を拡張させてしだいに大型化していきました。プクチョン(北村)には、チェ・ナム(崔楠)によって建てられたトンア(東亜)百貨店、商会から百貨店へと成長したファシン(和信)百貨店がありました。しかし、ファシン(和信)はすぐにトンア(東亜)百貨店を買収して、「朝鮮人が建てた唯一の百貨店」というキャッチフレーズを獲得しました。朝鮮人商圏の象徴だったチョンノ(鍾路)、そしてその中心に建っていたファシン(和信)は、まさに「民族のランドマーク」だったのです。
パート 2. 1937年、新たに生まれ変わったファシン(和信)
地下1階から地上6階に達するクリーム色の建物が、キョンソン(京城)の真ん中であるチョンノ(鍾路)十字路に建ちました。1935年に火災によって西館が全焼すると、一層大きく華やかな新館を新たに建て直したのです。建物の上ではネオンサインが休まず輝き、キョンソン(京城)のどこからでもひと目で見ることができました。全長65尺(約19m)の電光板は、キョンソン(京城)市内の耳目を集めました。また、トンア(東亜)百貨店を買収してからファシン(和信)の売場として利用されていた東館が半焼すると、5階に増築され、新館と並んでその威容を誇りました。
新しく生まれ変わったファシン(和信)は、単なる大型建築以上の意味を持っていました。他の百貨店と同様に、ファシン(和信)の店内には当代の最新文化の品々が満載でした。ファシン(和信)はそれらを求める人々で賑わい、ファシン(和信)も様々な方法を用いてお客を集めることに努めました。民族百貨店の名をかけて、他の百貨店との競争に本格的に乗り出したのです。
パート 3. 暮れゆくファシン(和信)の時代
解放が近づく頃、キョンソン(京城)は戦争の真っただ中でした。百貨店も生活必需品の販売を主力としたり、戦争広報展覧会を開催するなど、戦時状況に対応しました。ファシン(和信)は軍需会社である飛行機製造会社も設立しました。
ファシン(和信)の全盛期は足早に去りつつありました。韓国戦争によって焼けてしまい、骨組だけが残された建物が、それを暗示するかのようでした。その後、1955年にシンシン(新新)百貨店((現)チョンノ(鍾路)SC第一銀行敷地)を建て、ファシン(和信)とともにもう一度百貨店事業の盛り返しを図ろうという努力は、最新設備が設けられた百貨店の登場によって徐々に力を失っていきました。結局、百貨店の一部を賃貸して使用していた(株)シンセンが1967年に建物全体を買収して、百貨店の主人が後退することになりました。1980年に親企業であるファシン(和信)産業が倒産したため、百貨店はファシン(和信)の所有ではなくなりましたが、人々は当時もここをやはりファシン(和信)百貨店として認識していました。
今は姿を消したチョンノ(鍾路)のランドマークを記憶しながら
1987年3月14日、ファシン(和信)百貨店の建物の撤去が始められました。1937年にオープンしてから50年後のことでした。半世紀にわたってチョンノ(鍾路)のシンボルだったファシン(和信)は、都市再開発とチョンノ(鍾路)拡張計画によってその幕を閉じました。現在、この場所にはチョンノ(鍾路)タワーが建ち、チョンノ(鍾路)の真ん中に百貨店があったことを示す痕跡はもうありません。しかし、今なお人々はファシン(和信)を記憶しています。
ファシン(和信)百貨店の時計の下でそわそわと約束の相手を待ったかつての日。建物内の品々を見て楽しんだあの日。「ファシン(和信)前」停留場で降りてチョンノ(鍾路)を通り過ぎた昔の日。私たちの思い出が集まって、もう姿を見ることはかなわないファシン(和信)の残像を描きます。ファシン(和信)は今もやはり、私たちにとってはチョンノ(鍾路)のランドマークです。
「植民地時期を代表する朝鮮人建築家、パク・キルリョン(朴吉龍)の作品の一つであるファシン(和信)百貨店は、単なる建築物というだけではない。『朝鮮人の通り』だったチョンノ(鍾路)2丁目の鐘閣の向かい側にあったそれは、当時、三越や丁子屋など日系百貨店と競った唯一の『民族百貨店』であり、解放後に撤去されるまで数多くの市民の『都暮らし』の記憶が残っている場所でもある…。現在、その場所にはアメリカ人が設計して巨大財閥の金融会社が所有する異国的な高層ビルが聳え立っている。後代の歴史家たちは、ここで21世紀の多国籍都市ソウルを象徴する何かを感じ取るだろう。ここはどんな名が付けられるだろうか?」
ヨム・ボクキュ、「民族と欲望のランドマーク-パク・フンシク(朴興植)とファシン(和信)百貨店」、『都市研究』6、2011年