2006年に解体された光化門のコンクリート門楼の部材。
1916年に着工され、1926年に完工した朝鮮総督府庁舎の一部。1995年から1996年に撤去された。
19世紀に描かれたソウル全域の地図である首善全図をイメージしてつくられた噴水。
雲峴宮に住んでいた王の親族一家の墓所にあった石物。
朝鮮前期、鐘路の十字路に建てられた鐘楼の礎石。1972年、地下鉄工事途中に発見された。
陵や墓の前に立てる文官の形の石物。
思悼世子の4番目の息子であり興宣大院君の祖父にあたる恩信君・李禛 1755~1771)の神道碑。
1930年代に「日本車両製造株式会社」で制作した電車であり、 1968年11月まで約38年間ソウル市内を運行していた。
2013年8月にソウル市麻浦区玄石洞で発掘された碑石。
2004年に鐘路1街一帯で発見された市廛行廊の遺構。
昌慶宮と宗廟を連結していた陸橋の部材。
興宣大院君の長男であり高宗の兄である興親王・李載冕(1845~1912)の神道碑。
興宣大院君の長孫(長男の息子)である永宣君・李埈鎔(1870~1917)と曾孫の李鍝(1912~1945)の神道碑。
墓の前に香爐を置くために使われた石物。
墓に明かりを灯し、邪悪な気を追い払う長明灯と墓の前の両側に立てる石柱の望柱石。
高麗時代につくられた五重の屋根をもつ石塔。
1960年代後半から、都市空間を立体化してソウルの交通問題を解決しようと建設されたのが高架道路だ。1968年、初めてアヒョン(阿硯)高架道路が竣工され、1971年にソデムン(西大門)高架道路、1974年にホンジェ(弘済)高架道路が竣工され、車両が信号待ちすることなく運行できるようになった。しかし、2000年代に入って高架周辺のスラム化と中央バス専用車線による交通の断絶、施設の老朽化によって撤去することになり、博物館で橋名柱を引き受けて展示したのである。
ボクチョン(福清)橋は景福宮の東側の塀に沿って南に流れるサムチョンドンチョン(三清洞川)とチョンノ(鐘路)が合流する地点に位置した橋で、元の名前はへジョン(惠政)橋、あるいはへ(惠)橋だ。 テジョン(太宗)12年(1412)の川工事の際には石橋で作られたが、1926年に日本植民地政府が道路改修のため石橋をコンクリート橋に交換したことで、名前もボクチョン(福清)橋に改名した。この石標は、当時立てた橋名柱だと推定される。 ソウィ橋はマンチョチョン(蔓草川)の橋のうちの一つだ。マンチョチョン(蔓草川)はハンガン(漢江)に合流していた河川である。ムアクチョン(毋岳川)、カルウォルチョン(葛月川)、ドンクルネ(蔓草川)とも呼ばれた。現在、この河川はナムヨン駅からヨンサン駅間の約100m区間を除いてすべて覆蓋されている。マンチョチョン(蔓草川)の橋の一つであるソウィ橋の橋名柱であるこの石標は、最近チョンパ(青坡)路の下水管渠から発見されたものである。