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常設展示

  • Zone 1
  • 朝鮮時代のソウル
    1392~1863

    500年王都を興す

  • 首都漢陽の建設に関する展示
  • 首都漢陽の建設

    1394年、漢陽が新しい都に決まった。新しい首都は、昔からの伝統や風水、儒教の理念を総体的に考慮し建設された。まず、城郭建造の伝統にのっとり山容に沿って都城を築城し、都城内においては『周礼』の「考工記」に記されている「左祖右社」の理念に基づいて、王宮・宗廟・社稷を配置した。都の城郭は、白岳山をはじめとする内四山(白岳山・木覓山・仁王山・駝駱山)の稜線に沿って積み上げられ、山と山の間の平地を繋いで完成させた。王宮は白岳山の麓の吉祥の地に建立し、左側には歴代の王と王妃の位牌を祀った宗廟を、右側には土地と穀物の神を祭る社稷を配置した。また、六曹をはじめとする主な官庁は王宮の前に配置し、東西に走る大通り沿いには政府主導で設置された御用商店の市廛が開設された。朝鮮の首都漢陽は、伝統と儒教的合理性が融和されて建設された首都だった。

  • 漢陽の変化に関する展示
  • 漢陽の変化

    文禄·慶長の役と丙子胡亂で朝鮮は類例のない戦乱に巻き込まれた。全国の生活基盤施設は勿論、社会·経済体制も崩れ、膨大な損失を被った。首都漢陽は7年に渡る文禄·慶長の役で王宮と宗廟、そして殆んどの官庁と市廛行廊、民間住宅など都市基盤施設が略奪と火災で焼け野原となった。文禄·慶長の役が終わった後、宣祖と光海君の代に宗廟と昌徳宮をはじめ都市施設を再建し、王都としての姿を取り戻そうとした。しかし戦後の混乱がまだ収まらないうちに明·清との外交問題で丙子胡乱が勃発した。戦乱の期間は短かったものの、朝鮮の敗北で昭顕世子や鳳林大君をはじめとする王族と50万人もの良民が人質に取られるなど、その被害は非常に大きかった。二度の戦乱以降、朝鮮は戦後復興のため、政治·社会·経済全般にわたって既存の国家運営体制を再編するなど、新たな変化を迎えることになる。

  • 漢陽の繁栄に関する展示
  • 漢陽の繁栄

    朝鮮前期の漢陽は王と高官が主に居住する王都だった。17世紀後半、三南地方(忠清道·全羅道·慶尚道)における大同法の実施、金属貨幣の流通などによって漢陽で商品貨幣経済が発達し、殆んどの取引が貨幣を使って行われる体制が整った。18世紀後半以降は商業が大きく発達し、水上交通の中心である麻浦·西江·龍山など京江の主な入り江が商業発達を牽引する中心地として浮上した。商業と共に王室と両班に高級賛沢品を提供する金房·銀房·玉房などのような民営手工業も栄えた。その結果、人口の構成もまた商人と手工業者、賃金労働者が大部分を占めるようになった。

  • 漢陽都城の中の村に関する展示
  • 漢陽都城の中の村

    朝鮮時代の漢陽の都市空間は、漢陽都城を基準に都城の内側と都城の外の城底十里に分かれていた。これに加えて漢城府の行政編制により、都城の内外に東部、西部、南部、北部、中部の五部を置いた。また、漢城府の公式行政区域である五部とは別に、都城の中は地勢と水界を中心に、北村、南村、中村、東村、西村(ウッデ)、アレッテという地域区分も使われた。白岳山の麓である景福宮と昌徳宮の間の地域を北村、南山の北側の麓を南村、広通橋から宗廟前の孝経橋に至る小川の両岸地域を中村、景福宮西側のケチョン(開川)の上流地域を西村(ウッデ)、孝経橋から五間水門に至るケチョン(開川)の下流地域をアレッテ、洛山の西側の麓を東村と呼んだ。これらの地域は、自然景観や立地条件、居住者の身分的特性によって、それぞれ地域文化の様相が異なっていた。

  • 都城外の漢陽、城底十里に関する展示
  • 都城外の漢陽、城底十里

    朝鮮時代の漢城部は、城内および城外の約4kmまでを管理していた。城底十里の人口は、朝鮮前期まではそれほど多くなかったが、後期には人口の約5割が城外に住むようになった。麻浦·龍山·西江などは商業の中心地として、東大門の外の往十里·サルゴジボルなどは近郊農業の中心地として栄えた。朝鮮後期の漢陽は、王都から商業都市へと変貌を遂げた。城外の城底十里は、その象徴と言える。