近代都市化の影
1910年8月、日本は大韓帝国を強制的に併合して朝鮮と称し、天皇の直属機関として朝鮮総督府を設置した。総督は朝鮮の行政・軍事・立法・司法の全権を掌握していた。大韓帝国の首都として政治、経済、文化の中心だったソウルは、仁川や開城と同様に京畿道所属の府の一つとして格下げされた。ソウルは日本の地方都市の一つという位置づけとなったものの、植民地統治のための中枢機関や主な企業、教育機関、文化施設が集まっていて、実質的には依然として朝鮮の首都であった。日帝強占期(日本統治時代)のソウルの人口のおよそ20%は日本人で、彼らは主に淸溪川の南に位置する南村に住んでいた。朝鮮人に対する差別はもはや日常的なものだった。全ての行政は日本人中心で、経済・文化的な資源は南村に集中されていた。南村の建物と施設は韓国人々を惹き付け、人々はそこで近代を経験した。ソウルは、日帝強占期に近代都市へと急激な変貌を遂げたが、植民地都市の近代性は、韓国人々を誘惑したものの、決して溶け込むことはなかった。
日本は韓国を自国の領土に編入し永久支配をめざす一方、大陸侵略の足がかりとして利用しようとした。自国の必要性に応じて植民地開発の方向や優先順位を決めていた。日本の植民地統治構想は、ソウルという空間に実現された。道路体系は日本の軍事的目的および経済的ニーズによって作り替えられ、朝鮮王朝や大韓帝国を象徴していた建築物は、そのほとんどが破壊され他の用途に使われたり、近くに大規模の公共建築物が新たに建ち並んだ。都市の行政や管理にあたっては、常に日本人の利益が優先された。総督府は、日中戦争直前の1936年に京城府の領域を拡大し、戦争物資生産施設を配置した。古くからの伝統、植民地都市計画、市民による自主的な変更などが相まって、植民都市京城ならではの特徴が徐々に作り上げられていった。
京城は、日帝強占期(日本統治時代)の間、抗日民族運動の中心地だった。1919年の国を挙げての3.1万歳運動の出発点も京城で、義烈団員をはじめとする抗日義士らが義挙を断行した場所も殆んど京城市内だった。YMCAと天道教大教堂は民族意識を高め新しい知識を伝播し、新しい大衆運動の土台を築いた中心舞台だった。京城では、朝鮮物産奨励会、朝鮮民立大学期成會などの民族運動や社会運動団体が設立され、全国運動の指導部の役割を担った。1927年に京城で組織された新幹会は、名実ともに民族運動の中核となった。第二次世界大戦時中、日本は、銃後の安全を確保するため民族運動を激しく弾圧したが、京城の有識者は屈せず民族文化を保存するための運動を展開した。
1920~30年代の京城は、近代化都市計画の可視的な成果により近代都市としての姿を整えることになった。京城の中心街である光化門通-太平通、南大門通、本町通、鍾路を中心に西洋式近代建築の官公署が建ち並び、電車路線が拡大敷設されて新しい近代都市としての景観を整えるようになった。 「新しい文化」を象徴するモダンガール、モダンボーイは消費と流行を追って百貨店、カフェ、劇場など植民地資本主義の商業空間を練り歩いた。差別的な都市計画には日本人居住区である南村と韓国人居住区である北村を「繁栄-没落」、「清潔-不潔」、「活気-陰湿」、「文明-野蛮」のように二重構造化した。京城を二重構造の植民地都市として特徴付けていたように、韓国人の大半は都市貧民で、相対的に大きな剥奪感と疎外感を感じるしかなかった。
1937年に中国本土への侵略を開始した日本は、1941年にはアジア全域の侵略に乗り出した。 植民地政策も軍事目的に従属され、戦争は京城にも暗い影を落とし始めた。全ての生産要素が軍需産業に集中され、消費財産業は萎縮した。総督府は生活必需品不足を解決するために配給制を実施したものの、配給物資は常に不足していた。京城府の住民は極度の困窮の中、強制貯蓄と供出で財産を略奪され、防空訓練と思想教育、努力動員で身体を抑圧された。戦時中の京城は、飢えた住民がいつ戦場に連れて行かれるか分からない不安に震えながら強制労役に苦しむ巨大な収容所だった。